2012年3月18日日曜日

震災ヒーロー6

じいちゃん「また再建しましょう!」

震災ヒーロー5

救出された映像

震災ヒーロー4

警察・自衛隊に 小さな声援

震災ヒーロー3

大川小の行方不明者捜索自衛官に勇気を与えた小学生の手紙

石巻を襲った津波による最大の悲劇の一つが大川小学校の壊滅だった。石巻市立大川小学校は、児童108人のうち74人が死亡または行方不明となった。学校周辺や校舎内では、自衛隊による必死の不明者捜索が行なわれ、瓦礫や汚泥が取り除かれた。そして震災から約1か月後。
「すいません!」
 4月6日、大川小学校近くの追波川河川運動公園に設けられた宿営地内を歩いていた第14戦車中隊(岡山)の石井宣広3曹は、突如、背後から声を掛けられた。
 その可愛らしい声の主は、ワンピースを着た小さな女の子だった。少女は、振り向いた石井3曹にこう言った。
「これ、読んでください……」
 石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹に手紙を渡したのである。
 そこには、覚えたてのたどたどしい文字でこう綴られていた。


〈じえいたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、おともだちがみんな、しんでしまいました。でも、じえいたいさんががんばってくれているので、わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう。
うみより〉


 石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。
「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」
 その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。
 井上旅団長は言う。
「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲ってきましたよ。うみちゃんは、どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」
 少女が自衛隊に寄せた『日本をたすけてください』という切実な祈りに全員が奮い立った。中には、手紙のコピーを手帳に挟んで災害派遣活動に励む隊員もいた。同県利府町の加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼り付けられた。
 東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだ行方不明の6人の児童の写真もあった。
 その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を捜し続けていたのである。
※SAPIO2011年8月17日・24日号

震災ヒーロー2

その2

ロケットニュースから

妻と母親を助け出した男性、「ランボー」のようだとロサンゼルス・タイムズで紹介される

地震で被災しながらも、自ら妻と母親を捜し出し、さらに現在も他の行方不明者を捜索し続けている宮城県の男性が「ランボー」のようだと海外で話題になっている。

43歳のこの男性は、上はスウェット、下は迷彩パンツを履いた上からビニールで覆ってテープで固定するという出で立ち。履いているスニーカーはすでに泥だらけである。

津波が押し寄せて来たとき、自宅から数キロメートル離れた職場にいたそうだ。急いで自宅周辺へ戻ってみると、辺りはすでに水で溢れかえっていたという。家の中に取り残されているかもしれない妻のことが心配で居ても立っても居られず、救助隊の到着を待たずに、スキューバダイビング用の装備を手に入れ自ら水の中へと進んでいった。水面に浮かぶ瓦礫(がれき)は、水中を進む男性にとって大きな障害となった。ようやく自宅にたどり着き、妻を発見すると、安全な場所まで避難させた。

「水は冷たいし、暗くてとても怖かったです。瓦礫をかき分けながら200メートルほど泳ぎ、やっとのことで妻を助け出すことができました」と、男性は当時の様子を語った。

妻は救助したものの、その後母親の安否が確認できず、何度も市役所や避難所に捜しに行ったという。地震発生から4日後、母親を捜しに、水の中へ再び入っていった。姿が最後に確認されたと聞いた自宅近くにたどり着くと、周辺から取り残された家の2階で救助を待ち続けている母親を発見した。

「母は独り取り残されて、パニックになっていました。発見した時は、本当に安心しました」と当時を振り返った。

妻と母を助け出し安堵した男性だったが、これで終わりではなかった。その後もなお、1人でも多くの人を救助するため、水、懐中電灯、軍手、軍隊も採用する折り畳み式ナイフなどの装備を整えて瓦礫のなかを捜索しているという。

参照元:Los Angeles Times(英文)

震災ヒーロー1

辟易としていたが、被災時に活躍した方々を取り上げて、自分なりの震災記録とする。

以下産経ニュースから拝借

奔走した日本人女性医師 「被災地へ薬を」 米軍に直接交渉

■祖母の悲報乗り越え任務遂行
東日本大震災では米軍による支援活動「トモダチ作戦」が大きな成果を上げたが、その先駆けが被災地への医薬品の輸送だったことはあまり知られていない。東京・本駒込の日本医師会(日医)に医薬品が集まるめどが立ったのに、輸送手段が見つからない。厳しい局面で機転を利かし、米軍に直接交渉したのは、米ハーバード大学の人道支援組織の一員として派遣された有井麻矢(ありい・まや)医師(31)だった。(河合雅司)
震災発生から1週間もたたない昨年3月16日。被災地から「医薬品が足りない」との声が日医に相次いでいた。製薬各社の協力で確保できたが、問題は膨大な量をどう迅速に運ぶかだった。期待した航空自衛隊から色よい回答を得られず、落胆が広がった。
「米軍に協力要請できるかもしれません」。声を上げたのは、たまたま居合わせた有井だった。
当時、米エール大学に所属していた有井が、人道支援組織「ハーバード・ヒュマニタリアン・イニシアティブ」のメンバーとして一時帰国したのは前日15日だ。初対面の有井の提案を日医幹部は即座に受け入れた。
有井は「絶対に成功させよう」と腹をくくった。
◆逆に「アリガトウ」
米国を出発する前にエール、ハーバード両大学の同僚らから紹介された人々に電話やメールを送り続け、18日未明、米国大使館から返事が来た。交渉の末、米軍機による輸送は19日と決まった。
「アリガトウ」。連絡を取り合っていた米軍担当者からの言葉に有井は戸惑った。自分たちが頼んでいるのに、なぜ感謝されるのか。医薬品輸送は大震災発生後、横田基地からの支援としては初めての大型作戦だった。米軍も活躍の場を求めていたのだと感じた。
アクシデントが起きたのは輸送前日だった。横田基地からのメールには「USAID(米国際開発局)が最終的に承認しなければ、われわれは動けない」とあった。輸送要請の申請書を記入してほしいという。寝耳に水だった。急ぐしかない。夢中で書類を書き、1時間後にゴーサインが出た。
出発当日の朝、米軍と最終連絡を取っていた有井に母親から電話が入った。祖母が亡くなった知らせだった。輸送機には英語が堪能な有井が1人同乗することになっている。「しっかりしなければ」。5分ほど一人トイレで泣いた。
◆各部署の総力結集
集まった医薬品8・5トンは、横田基地までパトカーが先導した。横田基地でも特別扱いだった。ゲートはノーチェック。荷降ろし、梱包(こんぽう)、輸送機に積み込む作業にはさまざまな部署から何十人もが駆けつけた。
「私たちはオバマ大統領に日本の人道支援のためにと集められたチーム。人命を助ける作戦に参加できてよかったです」と口々に語った。米軍兵士の表情は誇りに満ちていた。
輸送機は岩手県の花巻空港に無事降り立った。しかし、次に向かった仙台空港は闇に包まれ着陸できない。管制塔とのやりとりが緊迫感を増す中、誘導の明かりがともった。自衛隊だった。自衛隊は降ろされた医薬品を被災地に陸送する任務も引き受けた。
数日後、有井の姿は宮城県気仙沼市の被災地にあった。そこには医薬品だけでなく、食料や水、トイレが足りず、プライバシーが確保できていない避難所が広がっていた。
当時を振り返って有井はこう語る。「災害医療では、医療や薬だけでなく、公衆衛生を含めて現地ニーズを迅速に把握し、対応できる協力体制が必要。知識とトレーニング、そして行政との連携が重要です」(※敬称略)
【プロフィル】有井麻矢
ありい・まや ハーバード大救急科医師。専門は国際救急。慶応大医学部卒業後、慶応大病院、エール大病院などに勤務。神奈川県出身。